久しぶりの投稿はブログっぽい個人的な記事です。
私の母が天国へ逝って10年が経ちました。
とっても長くなってしまったけど、SNSはいつかは消えてしまうから…こちらにも残しておきたい。
すぐに読める目次
当時のことと今の気持ち
2021.1
母が逝去して10年が経ちました。
あれから10年・・・生きてこれた。当時のことと、今の気持ちを綴ります。
病名は伏せますが、ものすごく運が悪いというかとても珍しい病気、宝くじに当たるより難しいんじゃないかという大病を「母親」が患いました。
症状は確実に出ているのになかなか何の病気か判らず、転院先で全身麻酔の手術をしてやっと分かった病気が「予後はきわめて不良」
最後の最後まで家族誰ひとりとして諦めなかったけど病魔には勝てず、たった半年の闘病生活で、あんなにうるさくてパワフルだった母が亡くなってしまいました。
おそらく、どこにでも居るであろうごく普通の仲の良い家族だった我が家が、まさか父子家庭になるなんて。あまりにもショックが大きすぎたし、信じられないというか信じたくなくて。当時、私は大学四年生。妹は大学一年生、まだ未成年でした。
学校終わりにお見舞いに行って。夜に突然自宅で倒れた時には119に電話して。バイトのない日は慣れない家事、家族にごはん作ったり。あの半年はとてつもなく辛かったからか、今思い返してみても記憶が随分と無くなってるんだけどね。母が元気になると信じて毎日毎日祈ってた。
だから本当に悔しかったです。父から、もう残りが長くないことを聞かされた時は、がんセンターでもう涙枯れるほど泣いて、私の心臓をあげてほしいと懇願。帰りの車で、もうわたし生きていけないかもしれないって思って。卒論も就活も終えたけど、希望が見いだせなくて何のために生きていくのか分からんくて。
それでも「生きたくても生きられなかった母の分まで生きよう」って家族で支え合って、3週間、3ヶ月、3年、5年、10年。なんとか、10年母が居ない世界で、今日まで生きて来られました。ホント長かった。いろいろあったし。母が居ない10年、自分でもよく生きたなって思う。
学生で母を亡くして同じような思いをしてる子は当時周りにもおらんくて、毎日辛いなぁ・・って思ってた頃。ちょうど2ヶ月後の3.11に、東日本大震災が起きました。たくさんの子供たちが朝まで笑顔で話してた家族を突然失い、自分だけ生き残り「震災孤児」に。
母はたった半年でも「闘病生活」があった。覚悟ができる期間、いや覚悟は出来なかったけど、それでも突然のお別れではなかった。それに私の場合は、20年は一緒に居れたから。家族が居るから。比較するのは変かもしれないけど当時テレビでニュースをみて、辛いのは私だけじゃないんだ、こんな小さな子も頑張ってるんだ、と心を奮い立たせてもらいました。
思わぬ転職や失恋など辛いことがあった時には「会いたい・・」ってたくさん泣いたし、母が好きな曲や番組が流れる度に会いたくなるし、子供が産まれて自分が母親になった今でもやっぱり母は必要。むしろ子育て中の今がいちばん居て欲しいかな。たくさん話聞きたかったな、頼って甘えたかったし、私も子どもを預けてみたかったよ。
母の納骨室内には、家族の写真がいっぱい。今日のお墓参りも、娘が「ばば〜」って。泣いている私に「ちゃみちいの?いいこいいこ?」と言って頭を撫でてくれて。「会わせてあげたかったな・・」と心から思います。結構厳しかったし、怒ると怖かったし、勉強しろってうるさかったけど、とても愛情深く、子供にかけるお金は一切惜しまない、そんな母親でした。きっと孫のことも可愛がってくれただろうなぁ。
50歳を超えても多くの人に慕われていた母。皆様が思いを寄せてくださった追悼文集を読むたびに、偉大な人で永遠に超えられないだろうなぁと思います。なにより残そうと製本してくださるような素敵な方々に母が囲まれていたこと。何度読んでも涙・・・。
11:47 曇り空でしたが、母を想って見上げていたら太陽が出てきてくれた。見てくれとるね、頑張ろう。
何をしてるのかな、ももちゃん(愛犬)と見てくれとるかな。そっちはどんな世界なのかな、こっちはどんな風に見えてるのかな。
もしも母が生きていたら・・・家族全員が全く違う人生を歩んでいたと思うから、私は夫にも娘にも出会えていないでしょう。それでも今のこの世界でもし母が居たら、って想像するのが好き。これからもたくさん母を想って生きていきたい。
最後に。10年前にmixiで書いたことと同じ内容ですが・・健康診断(人間ドッグ)やがん検診を受けてくださいね!
母は職場の健康診断のD判定が発端でした。受けていなかったら精密検査に行けず「更年期かな〜」で過ぎてしまっていたかも。兄弟姉妹やご両親に「人間ドッグやがん検診には行ってる?」って声かけてみてね。
(友人知人がフォローしてくれているinstagramで、呼びかけました)
産み育ててきた娘が社会人になる姿を見ることなく旅立った母、とても無念だったと思います。そして、娘に先を越された祖母、姉を失った叔母叔父、最愛の妻を亡くした父、世界一の味方である母親を失った私たち娘。残された家族もまた、とてつもなく辛いものです。
どうか同じような思いをする人が一人でも減りますように・・・。
私は、娘に同じ思いをさせないよう絶対に長生きします!あっちに逝って母に会えた時に「mamaの分まで生きたよ!」って堂々と言えるように。母の自慢の娘で居続けます。
みててね。
(知人が見るinstagramなんて今は年1・2回ペースでしか更新していないけど、こんなに長いのに多くの友人が読んでくれてすごい反響。とても嬉しかった。)
母を亡くした立場の私の思いや気持ちを知って、周りの人になにか少しでも響くものがあれが嬉しい。
10年の日の出来事
ここからは転記ではなく、完全に私が忘れたくないことの記録。10年を迎えるにあたっての出来事。
逝去10年を前に、ようやく納骨を済ませた。ずっと一緒にいると言っていた父だったが、娘たちに迷惑をかけられないと納骨を決意してくれた。いずれは父もここへ一緒に。
父や私の家からほど近い納骨堂。家族の思い出をたくさん詰めて、母が寂しくないよう賑やかで可愛らしいお部屋に。
前日
夫が出勤だったので、日中はいつものように娘に会いに、父と妹が我が家へ来てくれた。お昼を食べた後のコーヒーブレイクで、母の話をたくさんして思い出話に花を咲かせた。やはり母の存在は偉大。(褒めるだけでなくブーブー文句を言っちゃうのも相変わらずで我が家らしい)
夜は、娘を寝かせた後にひとりで「追悼文集」を読んだ。母が素敵な人たちに囲まれていたことはもちろん、母という人間の偉大さを改めて思い知らされ、やっぱり会いたくなって涙した。ユーモア溢れる人だったおかげで、泣きながら笑って大変。
夜に、母が特に慕っていた友人3名へ、10年のご報告と家族近況報告をかねて私から連絡をとった。最近の私たち家族の写真も添付して。
スマホの時代で連絡手段はLINEだが、なんとか3名ともに送ることができた。その後就寝。翌日、返信がきた。
3名とも母とは親交が深く、家族ぐるみでよく知っている仲の方々。私からの連絡をとても喜んでくださった。なにより3名が●ちゃん●ちゃんと母を今でも慕ってくれていて、母を想ってくれていたことが本当に嬉しかった。きっと母も喜んでいるだろうな‥
当日
朝から娘との予定(親子向けイベント)に向かった。コロナ禍で時間を区切った予約制。早めの時間帯がゲットできたおかげで早めに終わることが出来た。
母を見送った時間が迫っていたので、母の居るお墓(納骨堂)へ急いだ。イヤイヤ期の娘にてこずって(笑)なかなか出発できず、急ぎたかったのでベビーカーに乗せて向かった。しかし、見送った時間までにお墓に到着することができず道中でその時間を迎えた。
ちょうど信号待ちが青のなった瞬間だった。横断歩道を渡ってから、空を見上げて母に向かって話す。やっぱり出てくる言葉は「あいたいよ‥」その日はあいにくの曇り空で、空一面真っ白だったけど話しかけていたら太陽が出てきてくれた。思わず写真を撮って、父と妹にLINEした。「みてくれとるね!頑張ろう!」すごく嬉しかった。
お墓に到着して、10年だね、とお参り。母の遺骨ケースをたくさん撫でて話しかけた。涙がとまらなかった。大好きな薔薇の入った花束をお供えした。社会人になる前に逝ってしまって「恩返し」ができなかったという私に、友人が「親からもらった愛情を自分の子どもに与えること」だって言ってくれた。私に唯一できる母への恩返し、人生かけてするからね。
夕方に父からお寿司のお誘い。我がファミリーと一緒に、母が好きだったスシローへ。母は「エビアボカド」が好きだったので、そんな話をしながら父は母を偲んで食していた。そんな父の左手には結婚指輪が2つ。父の指輪の隣(小指)に、母の指輪。思い出話しながらの食事で、2時間近くゆっくりとした時間を過ごせた。父ありがとう、ごちそうさま。
帰宅して、娘を寝かせてから夜に祖母へ電話。今日で10年だね、と。(祖母は相変わらずで、連絡しなければよかったと思ってしまった)その後、叔母へLINEで10年の報告を送って、就寝。
翌日以降
前日の続き。詳細は控えるが、いろいろと思うことがあるやりとりとなった。
4人家族が3人になった時も思ったが、家族というのは1人が居なくなるとうまくまわらなくなるものだ。それぞれの関係性があって、それぞれの役割があるから。4人だったらうまくいっていたものも3人になるとうまくいかなくなったり。家族の形が変わってしまうから。家族間でもこの10年の間にいろんなのことがあった。それを経て、今の形がある。それは、親族間もまた同じ。
・・・なぜ血縁者なのに事前に報告をくれなかったのか?親族への納骨の報告は誰がするもの?
・・・なぜ血縁者なのに入院中一度たりとも会いに来なかった?新幹線で往復日帰りの距離を。こどもが受験生?幼児でもあるまいし。
どちらの言い分もわかる。一応私からは謝罪し、重ねて本人から手紙を送ってもらったが。なぜ直接連絡もらえないか分かってないんだなぁ‥
事前に報告してもらえなくて残念だった旨、だけだったらまだ分かるが、これまでの対応批判・人格否定的な文面をここぞとばかりに。直接言えないのに、なぜ姪である私に?しかもこの節目のタイミングで?「言わないで」って、すぐ近くに住んでいるし親子ツーカーなことも知っているだろうに。なんならもう私は嫁いで別の家の人間なのにね。
正直言って、他界してからこの10年、母を失った私たち姪を気に掛けるような言葉なんかも特になかった。命日に連絡があったこともない。もちろん母のお骨に手を合わせにきたこともない。よっぽど近所の方の方が、私たち残された家族のことを気にかけてくださっている。
都合のいい時だけ「血縁者」だなんて‥何を言ってるんだろう。
「親族付き合いの考え方が違う」別にそれならそれでいいけど、疎遠になっている原因がどこにあるのか、自分のこれまでも考えてほしいと思ってしまった。こっちは祖母の言動にも心を痛め続けているのに。思うことを飲み込んで飲み込んで、追い手紙だけ送っていた父。‥どこまで伝わるかな。
受験生だろうが私たち姉妹だったら、新幹線日帰りでも葬儀に出ていただろうし。いとこが若くして母を失ったら、少なくともいとことも積極的にこちらから連絡とったと思う。特にあちらからアクションもないし、母へどころか私たちへも何もない。
その親が「親族付き合い」について私に言ってくるのもちゃんちゃらおかしいと思ってしまう。
もうこちらから連絡とることはないかな。すごく残念な一件だった。
うちの娘への贈り物も父からのお礼を期待しているなら要らない。くれなんてこちらから言ったこともないのに。娘の親である私からではなく、その姪の親から礼がないだなんて‥恩着せがましすぎる。ビックリしてしまった。
何かあるたびに、何をするにも「母ならどうするかな」「母はこんな時どうしてたかな」これまでもこれからも、常にそういう考え方で生きていく。そして、周りの人たちを大切に。
たくさんの人に囲まれていた母が、わたしの生きる指標。